ビデオジャーナル51

山田晃士さんのステージを見ていると、沢田研二を思い出してしょーがない。
彼が人気者だった頃は私は子供だったので、歌い手としての真価の部分はわからなく、ただ新しい曲が出るたびにぜんぜんイメージの違う妙ちきりんなスタイルで出てきて面白いなあ、ということくらいだったが、当時は男が化粧するなんて!という時代。そんなときにピアスまでつけて、顔にラメ塗ってキラキラさせたり、黒い口紅つけたりして。まだまだ、テレビはお茶の間にあり、家族全員でみるものだったから、ウチの親たちのジュリーに対する反応は、それはそれは冷たいものだった。ジュリーが金のカラーコンタクトをつけて現れたときなど、ウチの父など「なんだこれは!」と吐き捨て。「唾棄」って言葉があれほとぴったりの言い方も無いくらいで。母もジュリーが歌うたび、気持ち悪い気持ち悪いと言っていた。唄が上手いという理解はあったようだが、ジュリーはキワモノというのが両親共通の見解だった。
これはウチが特に保守的だったわけではなく、当時としてはわりと標準的な大人たちの反応だったろう。今はロックの人もけっこうテレビに出るし、過激なファッションも一般化してるから、今の若造どもから見ると「なんでこの程度で大騒ぎ?」って思うだろうけど、当時、芸能界でこんなにあちこち飾り付けた格好をしていた男性歌手はテレビの世界にはいなかったのだよ。一番わけわかんなくハデだった極地はこの曲かなー。「晴れのちBLUEBOY」(この曲は後述する村田家における「紅白トリ事件」より時期的には後なのだけど、せっかくウチの両親の間で上がったジュリー株はこの曲でまた暴落しました・・・。)

あとで知ったのだけど、けっこうグラムロックやニューロマなど、海外のロックの音やファッションを意識して取り入れていたらしい。で、周りがびっくりしたり眉をひそめたりするのを、「どーだ!」ぐらいの気持ちで眺めていたのだと、後にジュリー自身が語っているのを聞いた事がある。この曲なんか、あからさまにアダム・アントだもんなあ。
しかしあるときの紅白で、ジュリーがトリを取ったときがある。曲は「LOVE 抱きしめたい」だった。いつもの奇抜なファッションではなく、派手な演出もなく、地味ともいえるスタイルでじっくり歌い上げたのをじっと聴いていたウチの両親は、聴き終わったあとぽつりと、「これは上手いわ。」「うーん、上手い今年は白の勝ちだわな。」と。父も母もなんだか悔しそうに唸ったのを憶えている。当時、私は子供過ぎて「こんなふつうのジュリーはつまらん。」と思っていたのだが、YouTubeでそのときの映像を発見。見てみるとなるほどです。唄は3分間のドラマというけど、その3分の間に完璧に唄の中の世界を演じきる力がすごい。世界観の構築力といいますか・・・。

ジュリー本人だけではなくプロデュースをする人たちが沢田研二を素材として奇抜なことをするのを楽しんでいて、なおかつ沢田研二自身も素材に徹することを積極的に楽しんでいたようだ。だから「やらされてる感」がないのがいい。「見世物なんだからめいっぱいおもしろいことしよう。」って自覚して、スタッフから本人まで本気で遊んでる感じがいい。俗悪、下品と言われようとも。いや、むしろそれを勲章のように受け止めながら。
そして、その俗悪がたんなるレベルの低い悪ふざけに終わらなかったのは、やっぱりジュリーの歌唱力あってのこと。どんな格好をしてどんな歌を唄っても、きちんと言葉が聞こえる。歌詞の一部が流行語になるくらいにキョーレツに。「晴れのちBLUEBOY」みたいな曲でさえ、ちゃんと歌詞が耳に届く。これぞ「歌謡魂」。フォークソングのようにメッセージを伝える力ではなく、歌の世界観を届ける力。一曲の歌を一編の映画のように聴かせる力だ。

んで、その「歌謡魂」、山田晃士さんにも宿っているような、気がしてしょーがない今日この頃です。

もし彼にジュリーの曲をリクエストするとしたら・・・と考えてみたのだが、ジュリーの曲って「女が年上で男がマゾッぽい」感じのラブソングが多いんで、思ったより似合う曲が少ないことに気づく。流浪の朝謡版の「晴れのちBLUEBOY」も聴いてみたいが、うーむむむ、個人的にはこれかな。「渚のラブレター」。シンプルなので、唄声の良さがストレートに出やすくて意外といいよーな。