ビデオジャーナル45

謡曲が好きである。
20歳の頃、手痛い失恋をした。食べられなくて、眠れなくて、深夜ずっとラジオを聴きながら起きていたのだが、若者向けの深夜放送が終わると決まってトラックドライバー対象の歌謡番組が始まり、演歌や昔の歌謡曲が流れた。
当時ロックファンだった私は、ダセー・・・とか思いながら聴いていたが、歌謡曲がいつしか心地よくなってくるのを感じていた。
自分の気持ちそのものにジャストミートではないんだけど、デフォルメされた恋の悲しみの世界が、自分を客観的に見せてくれると同時に悲しみに「酔う」という気持ちよさも教えてくれて・・・。その歌詞の世界に乗っかっているうち、自分の悲しみもフィクション化できる気がした。
そんなこんなで、客観的に自分も相手も関わった人たちのことも時間はかかったけど、許せた。
謡曲は傷ついた心に優しい。「酔う」ことを許してくれるからだ。現実を直視しなくても許してくれる。
いまでも、あの歌謡曲の特有の「優しさ」が好きだし、救われることも多い。

で、歌謡曲といえば阿久悠。去年亡くなったので、今年は何かと歌謡番組で取り上げられている。
彼の作品の中、「ざんげの値打ちもない」は北原ミレイの曲として有名である。私にとってはやさぐれた気分のときに救ってくれる曲でもあるのだが、この前NHKの歌謡コンサートを見ていたら、この曲、幻の4番というのがあるそうだ。
これはシングル版の原曲。

シングル版の曲ではナイフで刺したかどうかは定かではなく、ただナイフを光らせて待つ女が唄われて、その後すぐに回想する女の歌詞となる。
しかし、実は収録されなかった4番には男を刺したあと服役し、牢屋の中から空を見上げる女の姿が唄われているのであった。当時、あまりに斬新過ぎるということで、カットされてしまったそうなのである。
幻の、とは言いながら、実は映画のテーマには使われていたりするのを発見。
(ありゃ、削除されてしまった・・・。)

この幻の4番、あったほうがいいのか否か・・・。
私は無い方がいいと思う。この歌詞があると、3番で歌われる「細いナイフ」がナイフ以外もモノではありえないけど、4番が無ければ「ナイフ」を何かの比喩のように考えることができて世界観に広がりが出る気がするから。

まーそれにしてもこの歌詞のストーリーときたら、今流行のケータイ小説みたいである。
14歳で初体験、15歳で結婚して、19歳で男に捨てられ、その男をナイフで刺してしまう。それを回想して話す女の物語。
しかし凡百のケータイ小説と一線を画すところは「愛と云うのじゃないけれど」というフレーズであろう。
ケータイ小説だったら、こういった展開は安易に「愛」であり「恋」であるのだが。
「愛と云うのじゃないけれど」・・・だったら、何なんだ?それは聴く人によっていろいろでしょう。
良質な歌謡曲は懐が深い。だから好きなんだー。

これからも多分、私は歌謡曲に救われて生きていくのだ。