8時だよ!全員集合DVD

今週からなんとなく在宅ワークである。
ミシンかけ、テキスト作成などなど、やることは多い。
けど、家でやる仕事の欠点として・・・気が散るんだよねえ。なんか、身の回りに面白いことがあると、ついついサボってしまって、結局本業は夜中になってしまったり。それもまた楽しいのか?
妹が知り合いからこんなDVDを借りてきたので、さらに事態は深刻である。

私は言って見りゃあドリフ世代。自分の笑いの感覚の原点の一部になっているのが、おそらくドリフターズの「8時だよ、全員集合」だ。
(もうちょっと頭で笑いを見るようになってから影響されたのはスネークマンショウかも、だな・・・。)

スネークマンショー

スネークマンショー

ドリフに関してはホントに子どもだったので、理屈も何も入る余地なくとにかく笑わされてしまった。それだけしかない。しっかし、それだけ、のどれほどすごいことか!

今回何本かのコントを改めて見直してみて気付いたのは、言葉の少なさ。最低限、そのシチュエーションを理解させるための説明的なセリフはあるけれど、あとは動きで笑わせるものがほとんど。表情や、動作。そのテンポとリズムがすべて。頭で笑うところがもう、皆無といっていいくらい。
なるほど、子どもが熱狂するはず、ってか今回私も熱狂してしまったけど・・・。
ほんとに何も考えなくてよいのだもの。笑うために前提として必要な知識や素養もいらない。あの頃はほんとに、笑いすぎて吐き気がするほどとにかく笑った。今、どうかなあ。お笑いのライブやら寄席やらいっぱい見に行くけど、あんなにゲロ吐きそうなほど笑うってことはない。もうちょっと「知」の部分で笑ってる。どっちがいいとか悪いとかいえないけど、こういう・・・まるでスポーツのような笑い方もたまにはいいんじゃないだろーか。
木村万里さんがセレクトしてくるような上質のお笑いを「大人の笑い」とするならば、「全員集合」の笑いは「子どもの笑い」。客席の人影がみんな小さいなーと思ったら、それはもう子ども子ども子ども・・・・90%くらいだったのでありますよ。

このDVDの中のコントに「エジプトの墓泥棒」モノがあってそこにミイラが出てくるのだけど、動きのキレとかリズムがやたら良いミイラがいるなあ、と思って見てたらいきなり奇矯な笑い声。おお!すわ親治さんだったのか・・・!当時はそれとは知らずにみていたが、今この人のライブを見たりすることがある立場になっていたりして、すごく不思議な感じ。志村けんとの鏡ネタ(鏡に映っているふりをして同じ動作をするけど、そのうちズレてくるというネタ。)がすっごく面白かったです。

それにしてもあの大掛かりなコントが、すべてライブだったというのは奇跡だ。(だってホンモノの自動車が飛び込んできたりするんだから。)だからこそ出演者の表情や反応もリアルであり、面白かったのでしょう。そして、あの頃は「観る人」と「演る人」の間には明確な線があった・・・。
しかし「8時だよ全員集合」の視聴率をおびやかしたのは「俺たちひょうきん族
なんていうのかなー・・・観ている側がヘンに、作り手側に寄り添いたがった感じというか、視聴者が業界にスリ寄りはじめた80年代・・・。自分も作り手側の内輪になりたがり、楽屋落ちで笑えることが快感であり優越である時代がやってきてしまった。テレビに出ている人に観ている人が勝手に仲間意識を持つ時代。そうしてもらえることを前提にしての番組作りをするテレビ。なんか居心地悪い。

私は内輪受けが嫌い。もし自分が演る側の知り合いだったりして内輪だったとしても、嫌い。その日はじめて観る人の気持ちを思ってしまうからだ。

そんなことをいろいろ考えるとドリフの笑いは潔いし、ストイックだ。観る側に演る側の立場を押し付けようとせず、あくまで演る側はプロとして観る側を楽しませようとしている。一期一会でとにかく今この瞬間、誰も彼も笑って欲しいという気持ちで体当たりしている。大人になった今観ても、ほんとにヒキツケ起こしそうなほど笑ってしまうのだけど、同時にその心意気に涙すら出てしまうようなところさえ、ありますねえ。
今日はじめて観た人も死ぬほど、呼吸困難になるほど笑えるような、覚悟も準備もそこにはあるのだ。

お笑いの人は予定調和を大切にするのもいいけれど、いつでも「はじめての人」を笑わせてやるっていう心意気を忘れてほしくないな・・・。そんなことを思ったのだった。
そーいう気持ちがあれば、観る人が大人だとか子どもだとか、関係ないんじゃないかな。
ドリフターズ、マジでおもしれえ・・・。