さのさナイト

柳家紫文さんのお弟子さん達が、月一で開催している会らしい。
小寿々さんからお声をかけていただいたとき私が思ったのは、「ぜんぜんわかんないけど、大丈夫かな?」
これも不思議な話で・・・・楽器がテルミンだろうとなんだろうと「面白そう」っていうだけで出かけていく私が、なんで「大丈夫かな?」と思うのか。
邦楽だけ、なんか先入観があるんですね。
演芸を見るようになっていくらかそれは薄れたものの、やはり客同士が品定めし合うっぽいイメージやら、聴き方にダメ出しされそうなイメージやら、やっぱり抜けてない。
しかしその不安感に勝る好奇心。
それでやはり好奇心に人生を左右されている女、な友人を誘い、高円寺は「ちんとんしゃん」に出向いたのでした。
いやあ、二日酔いの上昼間の工場労働(?)で疲れてもいたため、迷いました、道に。

店は15人くらい入れば満員かな、という広さ。
え、舞台はどこ?
と思っていたらなんと、カウンターの中がいきなり高座。
呑んで食べてる私たちと、もう目と鼻の先。
そこで三味線を弾いて歌ってもらいつつ、酒を呑んだりお料理を食べたりできるわけだ。
うわああああ、贅沢。
お客さんの中でも唄える人が唄ったりなんかして、その場の空気でどうにでもかわっていくのが面白い。
人が主役になったり音が主役になったり、音が人に寄り添うような感じ。
そこに集まった人と奏でられる音とで、「その日、その場にしかない音」が作られていく。
このインタラクティブな楽しさと言ったら。
明治時代までは「伴奏」という言葉は無かったそうである。
「合わせましょう」「連れましょう」と言っていたそうな。
なんか、そんな感じが解かる気がした。
以前、アイリッシュパブのライブにいったときのことを思い出した。(曲の感じはまったく違うけど。)
演奏する人も客もみんな酔っ払ってて、その日そのときのテンションでステージがどうなるかわからない。
ま、三味線の場合楽器のキャラクターもあり、そんな荒くれたことはなさそうですが。
いやー、東西問わず酒場の音楽って大好き・・・。

弟子の会なので来ない、と聞いていた紫文師匠がお店に立ち寄り、なんとなく流れで太鼓を叩いてくれたりして、いやがおうにも高まる「一期一会」性。
今日ここにしかないハプニング性に関していえば、ジョン・ケージも草間ヤヨイも敵わない。(ん?)
客は好きに喋っていても構わないのでラウンジ的ではあるけれど、ときどき客の間に切り込んでくる・・・ラウンジよりはもうちょっと主張のある音楽、かな。

しかし巧いとかヘタとかはよくわからない。
(あ、あまりにもヘタだったらわかるかも。)
たぶんこれが「ぜんぜんわかんないけど大丈夫かな?」という私の不安の正体。
だって子供の頃から馴染みがないんだもの。
さらに「芸」といわれてしまうと、それ以上に自分の生活感と乖離する。
「音楽」として聴く立場・・・でしかいられないけど、いいのかしらね?

個人的にはこの先「識る」という楽しみが増えたんで、よいことでした。