ガンダム講談

そうそう、あと、震災後に観たエンターティメント3発目は「ガンダム講談」でした。神保町のらくごカフェで開催されたもの。
旭堂南半球さんは関西在住のため、なかなか東京方面で演ってくれず、ひさびさのお目見え。
東京を「地球連邦」と称したり、着物の紋がジオンの紋章だったり、スタッフがジオンのコスプレしてたり、遊びが徹底してるので、私としては好感を持っているのだが、友達を誘って見に行くかどうかは微妙なところ。
やっぱ、ガンダムがある程度わからないと、厳しい・・・というライン上にあるので、講談としてフラットに聴いてもらえるかどうかのギリギリの線。
私世代にしてみれば、ガンダムというのは好むと好まざるにかかわらず、なんとなく育ってきたバックボーンに持っている「物語」として存在していて、ある意味「忠臣蔵」とか「国定忠治」みたいなものと言えなくも無い。そうした解釈と講談というスタイルを結びつけることで生まれるパスティーシュ的なひねった楽しみが、私にとってのガンダム講談のキモでもある。でもそれだけに、「企画物」「キワ物」「色物」的な性質がどうしてもぬぐえず、演芸ファン的目線でみると、結果的に一緒に演っている古典講談の宝井琴柑ちゃんの安定感の方が際立ってしまうのだよね。
しかし、「ガンダムファン」目線で見るとまったく違う楽しみがあるのだし、ガンダムという言葉にひきつけられてやって来たであろう客はみんな20代から30代と、若い。これをきっかけにして講談という芸能を知ってもらう機会としては、すごくいい「場」になってると思う。女子率も高くて、ある種の落語会にただよういけすかない淀み感が無く、値踏みをするような視線のオヤジがいないのがよかった。
講談ネタとしての「ガンダム講談」については、今後ターゲットをどこまで割り切れるかが彼の勝負どころとなろう。私、「Zガンダム講談」にはたぶんついていけない。

さて、マクラ(というのかな、講談でも。)によれば彼は「震災チルドレン」とのこと。阪神大震災の被災者なのである。地震の後、建物がつぶれまくった街の中、自転車で様子を見に行ったことがあるという。倒れた建物の間の狭い道を、避難民がぞろぞろ歩いている光景に出くわし、なぜかガンダムF91を思い出したと話していた。私はよく知らないが、ガンダムの中でも地味な作品らしい。でも、震災の後の惨状とオーバーラップするシーンがたくさんあるそうで、最近怖くて観られないということだった。
ファーストガンダムのテレビ版予告編はかならず「君は生きのびることができるか」というセリフで締めくくられている。この言葉が被災したときにものすごいリアリティを持ってひびいたのだそうだ。そしていま、またものすごい重みを持って、ひびいてくる言葉となっている。
たしかになあ。


今回の震災の映像をいろいろ観ていて、たしかにすごい惨状なのだけど、なんだかどこかでみたようなデジャヴ感がずっと私の中にあった。よくよく考えてみると、小さい頃から見ていたロボットアニメやSFマンガで見たことがある光景に似ているのだ。一面破壊されて、荒れ果てた街なんて、何回観ただろう。
私たちは、ぜんぶ知っていたのではないか?
こうならないように警鐘を発するのがフィクションの役割だったとしたら、手遅れなのではないか?
それが今、ほんものになってしまった。現実がフィクションを越えたとき、フィクションに何ができるのであろうか?
これから「SFアニメ」というものの役割は、どうなってしまうのであろうか?
まあ、こうなってしまった今、あらためて昔のSFマンガやアニメを見直してみると、なにか突破口になるものがあるかもしれないとも思うけどね。まず手始めに、やっぱりファーストガンダムか?


と、楽しみに行ったはずなのに、なんだかいろんなことを考えてしまった講談会でありました。
内容は面白かったし、満足だったのだけどね。
「ランバラル降下」もよかったが、「鬼戦車ヒルドルブ」の昔かたぎの戦車乗りの心意気が印象的。
それにしても宝井琴柑ちゃん、いいなあ。私の好きなタイプの顔なの。猫っぽいというか、丸顔で鼻筋が短くて。田畑智子をほっそりさせた感じ。可愛い。きびきびした話しっぷりも小気味よく、以前観たときより格段に良くなっている。
女性芸人ってなんとなく「業」が深い感じの人が多いんだけど、彼女はそんなことは微塵も無く爽やか。男の子が、フツーに彼女にしたいと思う感じだと思います。要チェック。